之に因、人の病苦を救は薬師如来の慈悲の道理と念に、遠近、貴賎、貧福を撰ず、救を以て専としたまう。
薬師如来は、医薬や癒しに深く関連する仏です。その十二大願には「除病安楽」といった医療に関わるものだけでなく、精神的な苦痛や煩悩の浄化を願う「安心正見」や、重圧に苦しむ衆生の救済を願う「苦悩解脱」、そして飢えや渇きを助ける「飲食安楽」などが含まれています。
したがって、夢分翁は薬師如来の教えに従い、遠くの人も近くの人も、身分の高い人も低い人も、貧しい人も裕福な人も分け隔てなく治療を行い、撃鍼によってひたすら病に苦しむ人々を救おうと尽力されました。
故にその名ほど無く四方に秀づ、これを意齋法橋聞き伝え、奇異の念をなし、千里の道を遠とせずして、夢分の宅に尋行、師弟の約 を堅し、歳を積、月を重、奥義を授り、終に其の名を高す。
「千里の道を遠しとせず」は、夢分翁のもとを遠路はるばる訪れたことを意味するとも、奥義を授かるまでの道のりが長かったことを示唆しているとも解釈できます。
法橋は僧侶の位ですが、医師にも授けられました。
夢分翁の名声はほどなく広まり、これを聞き伝えに知った意斎法橋は、摩訶不思議に思いながらも夢分を訪問し、、師弟の契りを結び、月日を重ねて奥義を授かり、最終的には名声を上げるようになりました。
之に依弟子数多有といえども、奥田意伯其の伝を得、洛陽に住して名を都鄙に広。
「洛陽」は中国古代六都の一つで、九つの王朝・政府が都を置いた都市として知られています。日本では、平安京の左京を「洛陽」、右京を「長安」と称していました。右京が廃れた後は、「洛陽」という呼び名は京の都の別称として使われるようになりました。
御薗意斎は多くの弟子を抱えていましたが、その中でも奥田意伯が教えを受け継ぎ、京に住まいを構えて都や地方に名声を広めました。
相継て、宗子九郎左衛門の尉尊直、父に越て針術に妙を現す事勝計難。
其の嫡意伯同く相継、洛陽にして億万人の病を救。
是即ち夢分翁より伝へ来る処の鍼法此如。
「宗子」は嫡子、「九郎左衛門」は奥田意伯。「尉」は律令制の衛門府または兵衛府における位の一つです。「其の嫡意伯」は、尊直の息子である二代目意伯の事です。「億万人」は数多くの人々を意味する比喩表現です。九朗左衛門の息子である尉の尊直は、父意伯を越えて針術の技を極め、その卓越した技は計り知れません。その息子の意伯も同じように続き、京において数多くの人々を病から救いました。このように、夢分翁より伝えられた鍼法はとても素晴らしいものであったのです。