鍼道秘訣集は、夢分流撃鍼(打鍼)の流儀書です。
撃鍼もしくは打鍼は、小槌を使って鍼を打つ日本独自の鍼法です。
打鍼とは若いころから縁があり、道具も自作して臨床をしてきました。
撃鍼を始めて30年たって、原点のひとつである「鍼道秘訣集」に立ち返ろうと思い、本記事を始めることを思い立ちました。
当流、撃鍼の元は、
夢分流の鍼道秘訣集では、打鍼を「撃鍼」と表記し「ウチバリ」と読んでいる。現代においては「打鍼」と表記し「ダシン」と読まれるのが一般的である。「打」でなく「撃」の字を当てていることは、とても興味深い。両方の語ともに「うつ」と読むことが出来るが、意味が異なる。叩く動作は「打つ」であり、何か目標物にあてる動作が「撃つ」である。また、「撃」には、攻めるや押しのける、そして除くという意味があり、臨床で鍼が撃つ目標が病邪であることからも、「撃鍼」という標記は的をえていると言える。
鍼道秘訣集では、この書は夢分翁に師事した御園意斎の門下である奥田意伯が記したと序文で述べられている。「元」は、夢分流の始まりを指しており、この後に夢分流がどのような経緯で起こったかが述べられている。なお、所説あるがおそらく夢分翁は撃鍼、打鍼術の開祖ではない。
多くの説があるが概ねの流れは多田二郎為貞が花園天皇の牡丹の病を打鍼で治し、御薗の性を賜る。打鍼術の中興の祖といわれる御園意斎は、夢分斎に夢分流撃鍼を師事したという物語である。文献に記されている伝記はそれぞれ異なり、登場する人物、たとえは夢分と無分が同一人物を指しているか否かも不明である。正確な史実については研究者の間で議論が続いている。興味をもつ学徒はぜひ、研究論文をあたっていただきたい。
夢分翁、初禅僧たりし時、悲母極て病者なりしかば、夢分之を歎、母孝行の為、時の名人たりし医師に逢て捻鍼を習得て、朝夕母を療治し、病を痊とすれども、重病にや験も無。
茲於て夢分翁、工夫を費し、案 を廻して、此の撃針を以て立るに、手に応じて験を取のみかば、他人の病を痊事十に九を全す。
夢分翁は、鍼を始める以前、禅宗の僧侶でした。禅宗は坐禅を通じて仏教の真髄を理解することを目指す宗派であり、夢分翁が禅僧であったことから、彼の鍼術にも禅宗の思想が自然と反映されていると考えられます。
彼は、母親の病を治すために名医から鍼術を学び、治療を試みましたが、効果を得られませんでした。そこで、自ら工夫を重ね、試行錯誤の末に「撃鍼」を行った結果、ついに効果を発揮し、多くの患者を治癒することができたと伝えられています。彼の治療は10人中9人の病を癒すまでに至ったとされています。
初めに夢分翁が習得したのは「捻り鍼」であり、これは管鍼法が広まる前の刺鍼法でした。御園意斎が活躍していた当時、まだ管鍼は使われておらず、捻り鍼が主流でした。
「手に応じて験を取のみかば」の解釈についてはいくつかの見方が考えられますが、私の理解では「手で得た所見に従って鍼を行った結果、効果が現れた」という意味だと解釈できます。手で得た「腹部所見」に基づいて腹部のみを施術するという事が、夢分流の特徴です。手から得られる情報を元に施術を行う重要性が強調されているように伺えます。