~自然科学と伝統鍼灸と気のもやもや~
これは、私の頭の中や臨床周辺に存在する「気」のもやもやについて書いたものです。
~自然科学と伝統鍼灸と気のもやもや~(2)
~自然科学と伝統鍼灸と気のもやもや~(3)
1.はじめに
伝統的な鍼灸において最も重要とされ、強みでありながら実は最も弱みである可能性がある「気」について、もやもやしています。
東洋医学の専門書では生理、病理、治療の説明の中に「気」という言葉がいっぱい出てきます。生命の原動力「原気」、健康を守り維持する力「正気」、体を病から守る「衛気」、気をめぐらせる治療法「理気」などいろいろあります。こういう文章を読んだ大半の現代人の反応は「うさんくさい」、「非科学」、「宗教みたい!」(ちがうちがう!)、「迷信!」あたりになるんじゃないでしょうか? ちなみに上記の文言は、私が過去鍼灸学生から受けた反応です。悲しかったなぁ。
でも仕方がないのです。なぜならこれは多くの人間が持つ「わからないもの、理解できなものに対する忌避感情」から来るものだからです。そしてそれは、その場所その時の社会、そして世代がもつ思想や常識(というよりか空気でしょうか)に左右されます。
現代の自然科学は社会インフラに貢献し、多くの社会や人々に信頼されて受け入れられているため、一般人に忌避感が少ないものとなっています。分からない現象や機械でも「科学で説明できる」、「科学の産物」という事で信用されるものは少なくありません。ただ、科学を理解していないと「疑似科学」(トンデモ!)に騙されます。そして、科学的に問題ないのに、しっかりとした科学の産物なのに忌避感を持たれたりすることがあります。
例えば現在送電方法として主流となっている「交流送電」ですが、「管理が難しく危険なもの」として捉えられた時期があります。開発者のニコラ・テスラに対する直流を支持するトーマス・エジソンの嫌がらせキャンペーンが大きな原因です。とても科学的でないです・・・。悲しいですね。
話しを戻して、うさんくさいと取られてしまう東洋医学、その中でもとくに鍼灸が気と関連が深いと思われているようですが、それらがなぜ存在しているかというと、はい、「気の思想」が認知されていた時代があったからです。
ドイツの思想家、フリードリヒ・エンゲルス(1820~95)はその著書『自然弁証法』の中で「科学者達がどんな態度をとろうとも、彼らは常に哲学の支配下にある」と述べています。なるほど。
昨今、なかなか人的にも財政的にも苦心していますが、自然科学による鍼灸および関連分野の研究はちょこちょこ進んできていると思います。
論文を読んでいると、ニヤニヤしたくなるものもあり、このまま行くと100年もしたら鍼灸の科学化が進んで現代医学化するんではないかと空想したりします。現代主流医学の規模からすると、相互融合変化や統合というよりかは取り込みになるかもしれません。市民にとっては気軽に扱えるもの、利用できるものとしての鍼灸になり善い事と受け入れられるでしょう。そうなると、東洋医学は過去の歴史記録になるのでしょうか・・・・。
東洋医学としての鍼灸はどうなるのでしょうか、悩ましいです。
日本の鍼灸の業界では、東洋医学としての「日本伝統鍼灸」、「中医鍼灸」の他に「現代(医学的)鍼灸」と呼ばれる鍼灸があります。たぶん純然たる伝統鍼灸を運用されている先生は、少数派かもれません・・・。
一般の方には「鍼灸って東洋医学でしょう?」と言われます。おそらく、業界の中でしか通じない?、もしくは業界の中でもよく分からなない? 東洋医学の鍼灸たらしめるものは何か?については、私ははっきりした意見を持っていて「思想性」だと答えます。「気の思想」がバックボーンにあって初めて「東洋医学の鍼灸」と言えると考えています。これが社会にとって利点であるかどうか、利用法などを考える前にそもそも「東洋医学、こと鍼灸の気って何?」について再考する必要があるため、一般の人々になじみがない、多くの鍼灸師が頭を抱えている(かもしれない)「気」のもやもやについて、私の理解の範囲でいろいろ紹介したり述べたいと思います。
2.東洋医学の気の思想について
まず東洋医学と気の関係についてです。東洋医学の原典『黄帝内経』素問の陰陽応象大論に次のような文章があります。
原文
陰陽者.天地之道也.
萬物之綱紀.變化之父母.生殺之本始.神明之府也.
治病必求於本.
書き下し(現用の漢字にしました。)
陰陽は天地の道なり。万物の綱紀、変化の父母、生殺の本始め、神明の府なり。
意訳すると
陰陽は、天地を支配する法則である。
万物を分類・支配する大法と細則であり、万物が変化し栄枯盛衰するもとであり、万物の根源である気を働かせ機能させる場である。
故に、病を治療するにも、万物の根本原理である陰陽を求める事が大事である。
でしょうか。
「気」という言葉が入ってないのに意訳に「気」があるのはどうか?というつっこみが聞こえてきます。(笑)
江戸時代の医学者、岡本一包が大好きなので、彼の『素問諺解』のなかでこの部分の「神」について「神は陰ならず陽ならず陰陽変化測りがたし天地の間の一気を謂う~」と説明していて、それを含んで意訳しました。
この中で大事なのは「神」つまり陰陽属性のない「一気」が法則にしたがっていろいろ変化する所です。
実は、これ、一元論という考え方の範疇です。
一元論について
平凡社 世界大百科事典 第二版からの引用
世界と人生との多様な現象をその側面ないし全体に関して,ただ一つの(ギリシア語のモノスmonos)根源すなわち原理ないし実在から統一的に解明し説明しようとする立場。単元論singularismとも呼ばれ,二つおよびそれ以上の原理ないし実在を認める二元論・多元論に対立する。哲学用語としては近世の成立であり,C.ウォルフが初めてただ一つの種類の実体を想定する哲学者のことを一元論者と呼んだ。すなわち,いっさいを精神に還元する唯心論,物質に還元する唯物論,精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の同一哲学などは,すべて一元論に属する。
三省堂 大辞林 第三版からの引用
ひとつの実在や原理から世界のあり方を説明する哲学的立場。根源的なものを何とするかは立場により多様であり、ヘーゲルの絶対者、神秘主義における一者、仏教の真如、老荘の道などが著名。また、世界を精神や物質に還元する唯心論や唯物論もこの傾向に属する。
東洋医学は「老荘思想」の影響を多く受けていて、当時の最新の理性的な考え方である「気」とそれを動かす「陰陽」をその理論背景としたのだと考えられています。
気一元と陰陽論の仮説というか主張をまとめるとおおむね下記の様になります。
今風にいうと、根源の素粒子と究極理論の仮説でしょうか?
古代中国人は、万物の根源たる気と陰陽の法則という設定(ただの空草ではなく自然観察の産物です)を用いるといろいろ説明と予測がついて便利だ!としたのではないかと想像しています。実の所、西洋の思想との相性も悪くないんですよ!
気一元と陰陽論が当時画期的だったのは、これにより「鬼神」の支配から離れられたという事です。医学においては、呪いに頼らなくなったということです。史記の『扁鵲倉公列伝』で扁鵲が『巫を信じ医を信ぜざるは、六の不治なり』と言っています。扁鵲自身は仙人みたいな人なのでなんか面白いですね。
近代発展の方向性についてはもう、私の頭のなかはもやもやしてたまりません。(笑)
気一元
・自然には、万物の根源である気が満ちている。
・気の運動は陰陽という法則に支配されている。
・気の運動の状態により、陰と陽の気が生まれ(陰と陽の性質が表れ)、 万物が存在することができる。
陰陽論
・陰があれば必ずそれと対応する、または対立する陽があり、陰だけがあって陽がない、陽だけがあって陰がないということはなく、相い合してはじめて物は存在することが出来る。
・陰陽は、互いに制約しながら平衡を保ち、時間的経過において、陰が退くときに陽が現れ、また陽が隠れるときに陰が進むというように、陰陽は相い交わり循環する。
気を操る鍼灸治療が究極の医学であるというロマンが発生するのはこのあたりにあるのだと思います。
私にも実感があることなのですが、「気」を中心にものを考えると、あたかも「気」があるがごとく世界がふるまっている様に見えてきます。
実に気持ち良さげですが、今の私はもやもやします。(これが真理だとはまった、大二病(中二病の再発)の時期があるんです。修士時代にだいぶ収まりました。)
次回は、人体の「気」について東洋医学、そして鍼灸ではどういう風に考えているのかについて書きます。