然るに、当流は十二経、十五絡脈、任督両脈を考針せず、根本の五臓六腑に心眼を付枝葉に構ず、
夢分流では、正経、絡脈、奇経という経脈を考慮せず、人体の根本である五臓六腑を対象に鍼をします。
しかしながら、我々の流派は、十二経脈や十五絡脈、任脈と督脈などの経絡に基づいて針を打つことはなく、根本である五臓六腑に心の目を注ぎ、細かい理論や表面的な症状にはこだわりません。
針は心なりと和訓して、心を以て心に伝、教外別伝、不立文字と号するが故に、他流の如き遠理の廻遠なる療治本更に之無。
「針」は「心」である。音が同じ漢字は、意味が関連するものがあります。
和訓とは、漢字にやまと言葉を当てる事です。「心」は「こころ」と和訓します。
「教外別伝、不立文字」は禅宗の言葉で、悟りは言語ではなく心から心へ伝えられるもの、言語に起起こせないものという意味である。針もそうであると夢分は述べている。
遠理は、仏教用語では執着を捨てた悟りの境地を指す。
針は心であり、和訓するとこころである。針は心から心に伝承されるもので、言葉や文字による教えとは別に伝えられるもので、文字には起こせないものとされそれゆえに、療治は病の本質へ行うために他の流派のように回りくどい方法は一切とりません。
心裏に奥義を納め、唯一心の持様を大事とするなり。
此専一の処を護事成難きがゆえに、管針、指針など名を替、品変て人の心を蕩す。
「専」は一途、「心の持ち様」は心のあり方や考え方、心構えなどの意味です。
指針は、捻り鍼、捻鍼を指します。
夢分流では心のうちに奥義をおさめ、ただ一つ心の持ち様を大事にします。しかし、一途にこれを守ることは困難なめ、管鍼法をやったり捻鍼法をやったりと、心がたぶらかされて様々な鍼法へ手を出してしまうことになります。
譬ば、手書人尊円流の御家の筆法成難きゆえに、色色と書替、紛かすが如し。
「尊円流」は南北朝時代に尊円入道親王が起こした書道の流派です。
例えば字を書くことを生業とする人が、尊円流の書き方が難しいからといって、色々な書き方の字を入れてごまかすようなものです。
是故に、多く過有て、十に九非業の死をする人数多なり。
多くの誤りをはらみながら鍼をすることになり、10人中9人も非業の死をとげるような事になります。
誠に悲可、憐べしと念心止難に因て、万人の死をも救、千万の鍼医の危事を成ず。
「念」は常に心の中にあって往来するおもいです。「心止難」は、そのおもいが心の中で止めることが出来ない様を表現しています。「万人」は多くの意味、「千万」は、危うき事がはなだはだ多いことを表現しているのであろうか?
とても悲しく可哀そうという思いが心のなかで行き来して止まりません。これでは多くの人々の死を救うことも、様々な鍼医の危うい所を正すことが出来ません。
上手号を取しめんが為、秘中の秘事を書あらわして、世宝とするものなり。少も疑生勿。
「号」は称されるの意味ですので、「上手号を取しめんが」は、名人と言われるようにぐらいの意味になるのでしょうか。
だから私は、多くの鍼医が名人と称されるように、秘伝中の秘伝を文字に起こして世の宝にしようとしました。少しも疑いを持つような事がないようにしてください。