• テーラメイドな鍼灸を目指して

鍼道秘訣集 三 心持之大事

三 心持之大事

他流には何れの病には何れの処に何分針立るなどと云う事ばかりに心を尽し、一大事の処にまなこを付けず。当流の宗とする処は、針を立る内の心持を専とす。

他流では、この病にはこの経穴にこのくらいの深さで鍼を刺すなどという事ばかりに心を向け、最も大事な所に目を向けていません。


語に、わざに無心にして心に無事なれば、自然に虚にして霊空にして妙。

「語」は禅語の事だと思われます。

「無心」について、禅では雑念妄想を断って迷いを脱した心の状態を指します。黄帝内経素問の上古天真論にはでは、「恬憺虚無」という似た言葉があります。「恬憺てんたん」とは、心が静かで穏やかであり、何事にも執着しない状態を指します。「虚無きょむ」とは、心がくうであり、余計な思いやこだわりがないことを意味します。つまり、「恬憺虚無」 とは、心が穏やかで執着がなく、無心の境地にあること を表します。

「無事」は、変わったことがない事、危ないことが無いことを指しますが、臨済宗の祖・臨済禅師は、「自分自身が仏であると気づき、外に向かって求める心がやむこと」が無事であると説いています。

仏教用語の「妙」は、人知が至らないものを指します。


禅語には、事をおこなうときに無心かつ無事であれば、自然と心は何もない虚な状態となって霊性は空となり、人知で推し量ることが出来ない境地へ至ります。


ひかぬ弓、はなさぬ矢にて、ときは、あたらずしかも、はづさざりけり。是、当流心持の大事なり。此の語歌を以て工夫し、針すべきなり。

この語歌は禅語であるため、いくつもの解釈が出来るという事を念頭に置いておく必要があると思います。よく似た語歌があり、夢分流で意識していたと思われますので先に紹介します。

 「立てぬ的 引かぬ弓にて 放つ矢は 当たらざれども 外れざりけり」

『道歌心の策心の策』に掲載されている仏国国師 臨済宗の高峯顕日の歌で、下のような解釈ができます。
1. 行動しなければ成功も失敗もない。

「的を立てず」という言葉に注目すると、目標を立てなければ、そして挑戦しなければ成功も失敗もないという意味にとれます。つまり、「行動しなければ結果は生まれない」という戒めとも解釈できます。

2.無心

「的を立てず、弓を引かずに矢を放つ」という矛盾がある行動は、作為や執着を捨てた状態を象徴しているとも考えられます。雑念妄想を断って迷いを脱した心の状態で、禅とも繋がります。

3.執着からの解放 

的を立て、弓を引くことは、何かを達成しようとする「執着」を意味するとも考えられます。この歌は、「目標に執着しないことで、成功や失敗に囚われず、自由な心を得ることができる」という悟りの境地を示しているのかもしれません。

4.禅的な問いかけ

禅では、思考を超えた直感的な理解を促す「公案(こうあん)」と呼ばれる問いかけが用いられます。この歌も、「的も立てず、弓も引かずに矢を放つ」という矛盾を含んでおり、理屈で考えようとすると答えが出ません。これによって、読む者の固定観念を揺さぶり、真理を直感的に悟らせようとしているとも考えられます。

 上述を踏まえて、鍼道秘訣集の語歌について考察します。

1.撃鍼の手技についての解釈

撃鍼は、「鍼を打つ」ように見えて、実は「打たない」治療である。「挽ぬ弓、放ぬ矢」という表現は、刺さないという事を示している可能性があります。撃鍼の手技については口伝がある事が鍼道秘訣集や他の文献でも述べられています。そして、興味深いことに撃鍼の挿絵では、鍼を打たずに手の甲を打っているものを多く見かけます。
森立之が著した『遊相醫話』(1864年)には初代河村意作の話として「何れにも打つ前には左手の背にて一つトンとためし見て打ち込むなりこの際に口伝あるよし」と手を打つ手技が存在した事を示す記述があります。

2. 無心で鍼をするという解釈

一般的な弓術では、「弓を引き、矢を放つ」ことが重要だが、この歌では「引かず、放たず」に的を射るという逆説を説いていて、意図的に矢を撃たないことを示しているように取れます。患者を治そうとする事や、治療の結果も意識せず無心になって、自らの心のうちの霊性・仏性のままに鍼をするという事を指しているのかもしれません。そもそも人には回復する力、自然治癒力が内在していてはり師は患者の回復を助けることが生業です。「治さねばならない」という観念、執着はかえって治療の妨げとなることを私自身も経験しています。


引かぬ弓放さぬ矢にて射るときは、当たらなくても外すことはありません。これは、当流の心持の大事です。この語歌をもとに、よくよく工夫して鍼をすべきです。